上昌広先生インタビュー 第1回『3.11。福島であの時、何が起きていたのか』

「復興は現場から動き出す」という本があります。著者の上昌広先生は血液・腫瘍内科学を専門とする医師で、東京大学医科学研究所を経て、現在は自ら立ち上げたNPO「医療ガバナンス研究所」の理事長を務められています。2011年3月11日、東日本大震災の直後から独自のネットワークを通じて福島県浜通りの支援を続けてきた上先生に、3回に分けて福島にまつわる過去・現在・未来を伺います。

もくじ

500人以上もの透析患者の大移送プロジェクト

福島県浜通りで活動された上先生は「現地の実情や住民の本音は、ほとんど社会には伝わっていない」と痛感されたと言います。上先生は、知人医師からの情報で、震度6弱の地震に見舞われた福島県いわき市で断水のため、透析患者の搬送が喫緊な大問題になっていると知りました。そこで知人や一部医療メディアの助けを得て、3月17日、500人を超える透析患者の東京・新潟・千葉への受け入れ搬送を成し遂げたのです。
とは言え、その道は困難を極めました。受け入れ先は見つかっても、搬送手段の手配で「被ばく地域でない」という理由で福島県の協力を得られなかったため、自前で確保せざるを得なかったのです。結局、教え子の医師や災害支援NGOなど有志のネットワークによって約30台のバスを押さえることができました。ですが一難さってまた一難、福島県の許可が必要と考えた地元バス会社が問い合わせたところ、県の担当者からは「厚労省の指示があれば許可できる」と、いわゆるたらい回しに遭ってしまったのです。
「福島県の関係者は『官』の許可を重視する傾向にあります。ですが、当事者でない『官』が介入すると、問題を複雑化させてしまうことが少なくありません」

そこで、当時与党の民主党の医師議員を通じて厚労省幹部に当たったところ、答えは「先生たちの勝手な行動は厚労省で評判が悪い」「東北全体の患者搬送システムを作るのが先。それができたらいわきの透析患者も利用すればいい」というものでした。透析患者の搬送にまつわるやり取りで、日本の医療における「無責任さ」を痛感した上先生。
「医療現場は県に、県は国に頼りますが、その国も未曾有の状況下でパンクしていました。さらに良くないのは、その官からの情報を盲目的に垂れ流すマスメディアです。いわき市の例のように、多くの被災地の窮状は社会に知られることなく、従って救いの手も届きません。各自が自分のできることをするしかないのです」

一時情報を的確に広める、地震医療ネットワークを立ち上げ

透析患者搬送を手伝ううちに東大医科研の上先生の研究室にさらに有志が集まるようになりました。それは3月14日に地震医療ネットワークのメーリングリストの形で立ち上がりました。
「大災害の対応で重要なのは、関係者が情報を共有し、皆が自己責任で自分のできることを行うこと。そのためには正確な情報を入手し、関係者にしっかりと公開することが重要です」
そのため、地震医療ネットワークのメンバーには情報ソースとして信頼のおけるという意味で、東北の地元の人や土地勘のあることが重要視されました。

このネットワークで活動するうちに知り合ったのが、立谷秀清・相馬市長でした。地震・津波に加え、原発事故、風評被害に見舞われた浜通りでは、自衛隊から住民の避難指示がありましたが、「今避難すれば相馬市は崩壊する」と考えた立谷市長は籠城を決意していたのです。それを聞いた上先生も衝撃を受けたそうです。

「被災地のリーダーの生の声には、圧倒的な説得力がありました。それから、立谷市長とは密に連絡を取り合うようになったのです」
重症患者の搬送、不足する精神科医の要請などの要望を受け、上先生のグループはメーリングリストを通じて周知させることで具体的なサポートにつなげていきました。重症患者の搬送では震災から数日後の深夜、メーリングリストを読んだ旧知の防衛省幹部から連絡があり、立谷市長につないだ結果速やかに実現され、精神科医についてもネットワークの参加メンバーが知人に働きかけるなどして、最終的には徳洲会グループの協力で3月28日に公立相馬総合病院で精神科外来が再開します。

こうした相馬市の「籠城戦」の動きが近隣自治体にも波及したようでした。南相馬市では原発から30キロ以遠にも退避を呼びかけたため、人口7万人の大半が県外に移動し、寝たきり老人などを含む1万数千人が残されていましたが、やはり残っていた開業医らが3月25日、業務を停止していた鹿島厚生病院の建物に相馬郡医師会臨時診療所を開設して診療に当たったのです。上先生によれば、それはまさに「自立的に自らの町を維持しようとする試み」でした。

被災地を率いる「強いリーダーシップ」のあり方

上先生が初めて福島県に入ったのは4月20日。相馬市役所で立谷市長と面会して震災後からの対応を聞き、「まさに獅子奮迅の働き」と感じたそうです。立谷市長は震災発生9分後に「相馬市災害対策本部」を設置して第1回目の会議を招集し、内陸部の消防団に倒壊家屋の確認や生存者救出を、海岸部の消防団には津波の避難誘導、市職員には災害弱者施設の確認を指示。震災から67分後の午後3時53分、相馬市に津波の第一波が到着。9.3メートル以上という観測史上最大の津波で、相馬港や松川浦一帯が壊滅的被害を受けました。立谷市長は対策会議を矢継ぎ早に開き、空きアパートの確保、生活資金に充てる見舞金発給、ライフラインの復旧、瓦礫撤去の置き場所確保、棺おけ500基の手配など具体的な指示を行っていったとのこと。
「災害が起きた時の地域格差というのは、自治体リーダーの能力差にあります。被災地の状況は、当事者には痛いほど分かるわけです。国や県だと官僚の考えに沿うよう、待たねばならなかったり決められなかったりするもの。村や町という単位でなら『リーダー』の力が発揮されますから、その能力で明暗が分かれるわけです。それに加え大きいのは、その土地の歴史、明治市制以前にどう治められていた場所なのか、また、周辺地域との力関係です。『県』という単位は当てになりません」

福島県を見てみると、明治維新の枠組みの中で元来の共同体がさまざまに合併させられていると言います。
「維新のいわば負け組なので、村など集落の単位が強く、『福島県』という感覚がもともと薄い土地柄なんです。西から会津・中通り・浜通りと3つの地域に分けられますが、県知事もその3地域から交代で出すようなバランスで成り立っています」
相馬市、南相馬市という地名がありますが、福島第一原発から北の地域は、鎌倉開府から戊辰戦争集結まで「相馬家」が代々統治してきた、旧相馬藩領。江戸時代の相馬家6万石は、歴史的には中通りとは縁がなく、伊達家60万石だけを意識し対抗してきたそうです。

「伊達家は接する藩領を、相馬家以外は全て滅ぼしましたから、相馬家というのは代々相当強い集団だったようです。豊臣秀吉の小田原征伐では豊臣方について本領を安堵され、その後は水戸の佐竹家100万石に与力として仕え、時勢を見て石田三成に付き、関が原の戦の後には徳川家に付いて譜代大名として生き延びました。同じく三成に付いた佐竹家が秋田に追放されたのとは異なり、当主の智慧が感じられます」
そうした来歴だから仙台を意識する反面、福島市などは歯牙にもかけないのだそう。地方に入って活動する際には、そうした土地柄や歴史観、人間関係などを踏まえることが大事だと、上先生は言います。旧相馬藩領の例で言えば、遠交近攻の観点から、独自のネットワークの存在も感じられるとのこと。

「第33代当主・相馬和胤は麻生太郎さんの実妹である雪子さんと縁組みしていますし、相馬中村神社の禰宜(ねぎ・宮司に次ぐ神職)である田代麻紗美さんは文仁親王妃紀子様の実弟の川嶋舟さんに嫁いでいました。こうした血縁に基づくネットワークは、県や市といった行政府が持つものとは根本的に異なります」

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