【前編】南相馬市立総合病院 尾崎章彦先生インタビュー 〜震災後の地域医療について〜

2017/8/17 記事改定日: 2017/9/1
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東日本大震災の被災地の一つである福島県南相馬市の公立病院、南相馬市立総合病院に勤務する外科医・尾崎章彦医師は、一般診療の傍で、震災後の健康問題にも取り組んできました。福島の被災地ではともすれば放射能に関する問題ばかりが注目されてきました。しかし、尾崎医師は、放射能による被害そのものよりも、震災後の社会変化を背景に起こっている健康問題に特に着目してこれまで活動してきたそうです。

例えば、最近尾崎医師が報告した調査として、被災地の乳がんに関するものがあります。きっかけは、日々の診療の中で、治療が手遅れになるまで受診しない乳癌患者さんの存在に気付いたことだそうです。震災前後10年以上の期間にわたって患者さんのデータをまとめた結果、震災後に福島県沿岸部の乳がん患者さんにおいて受診の遅れが増加し、その背景に避難に伴う家族サポートの低下があることがわかってきました。今後は、行政や地域住民とも協力し、乳がん患者さんの早期受診・早期発見に向けて取り組んでいきたいとのことです。

この記事ではそんな尾崎医師に、被災地での医療に従事するまでの経緯や今もなお残る被災地の医療の課題を中心にお話を伺います。
前編です。

冷凍宅配食の「ナッシュ」
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東日本大震災直後の医療現場


▲ 震災直後、千葉県旭市を襲った津波の様子

私は2010年に東京大学医学部を卒業して、初期研修の2年間千葉県旭市の中核病院である旭中央病院で勤務しました。2011年3月に東日本大震災が発生した時は、私はちょうど旭中央病院の麻酔科をローテートしていました。患者さんに手術前の麻酔の説明を行なっている際に大きな横揺れがあったことを今でも鮮明に覚えています。旭市は千葉県の中でも被害が特に大きく、沿岸部を中心に津波の被害を受けて20人弱の方が亡くなりました。病院は海岸線からわずか3kmのところに位置していましたが、幸い津波自体の被害は受けませんでした。一方で、津波で流された方や怪我をされた方が救急外来には多く運ばれてきたため、私も先輩と一緒にそのような方々の診療に当たりました。その中で、津波で溺れた患者さんに挿管(呼吸を助ける措置)を試みることがあったのですが、当時は経験不足で思うようにいきませんでした。先輩に代わってもらい事なきをえましたが、「役に立たなかったな」という思いばかりが募る経験でした。この時の気持ちは当時の救急外来の現場の状況と併せて大きく記憶に残り、結果的には私のその後の進路に大きく影響を及ぼしたと感じています。

研修医2年目の秋頃、私は外科を専門にすることに決め、母校の東京大学が提供している外科研修プログラムに申し込みました。このプログラムは、外科系の医局が母体となり、若手のドクターを地域の病院に派遣してトレーニングを積ませる制度です。派遣先候補の病院リストのうち東北地方で唯一対象だったのが、福島県会津若松市にある竹田綜合病院でした。この当時、被災地に飛び込んで仕事をしたいという思いの一方で、外科として駆け出しの数年間は、しっかりとトレーニングを積んだ方が良いのではという気持ちもありました。その意味で、福島にありながらも浜通りや中通りに比較すると震災の影響が強く残っていなかった会津地方に位置する竹田綜合病院は、自分には良い候補に思えました。竹田綜合病院は、諸先輩方からの評判も上々で見学に行ったときの印象も良く、研修先としての赴任を希望したところ、幸い認められました。赴任した2012年4月当時は震災から1年しか経ってないこともあり、福島で勤務することに関して親や家族から心配されたりもしました。しかし、会津若松市に関しては放射能の影響はほとんどないと前もって聞いていたので、その点に関してはあまり心配していませんでした。

最終的に竹田綜合病院には2年半勤務し、一般外科を中心にトレーニングを積みました。歴史的には、会津地方は戊辰戦争の舞台の一つとなった土地であり、会津若松市には、鶴ヶ城や飯盛山など当時の歴史を伝える史跡が現在も残っています。また、市外の猪苗代湖まで足を伸ばせば、その湖畔には野口英世博士の生家もあります。このような素晴らしい観光資源が多数あることから、震災前は修学旅行先に指定されることも多く、多くの方々が会津地方を訪れていました。しかし、原発事故を契機に観光客が激減したそうで、会津地方の観光としては大変な時期だったようです。
市内には大熊町の方々が住む仮設住宅もあり、その前を通るたびに震災の影響を感じることはありました。しかし、病院の勤務医として日々の診療を行う限りにおいては、(私の感受性の問題だった可能性はありますが)震災の影響をあまり強く感じることはありませんでした。結果として、非常に充実した外科研修だった一方で、福島が東日本大震災でどのような影響を受けたかという点については、理解を深めることができなかったという思いもありました。今振り返ってみると、この時の気持ちが次の進路選択に影響したと感じています。

現場に赴くという選択


大学に戻ってからのキャリアとしては、外科のうち専門としたい臓器について1年程度大学の病棟で勤務した後に基礎研究に携わるというのが主流でした。しかし、私は基礎研究に対してあまり強い興味をもてず、専門としたい具体的な臓器も決まっていませんでした。そのため、大学で働くことに対してはっきりとしたイメージを持てず、母校に戻ることをためらう気持ちがありました。その際に進路について相談したのが、学生時代お世話になっていた上昌広医師でした。

上医師は元々血液内科医でしたが、30代で一線を退き、その後は東京大学医科学研究所において医療ガバナンスに関する研究室を主催していました。大学時代にその研究室に出入りしていたこともあり、大学卒業後も節目節目で挨拶に伺っていました。上医師の研究室では、震災直後から南相馬市に入り、被災地の住民に対して様々な形で健康支援を行なっていました。なかでも震災当時に大学院生だった坪倉正治医師は、南相馬市や南相馬市立総合病院の職員、さらには、住民の方々から協力を得ながら、放射線被ばくに関わる検査を震災後継続していらっしゃいました。福島に移動してからFacebook等でそのような活動を見聞きすることがあったので、実際にお話を伺ってみたいという気持ちはずっと持っていました。

話は少し逸れますが、もともと私たちの身の回りには放射能が存在しており、日々の生活の中で放射線に被ばくしています。例えば、飛行機で上空に上がっていくと放射線被ばくが増加します。また、大理石や花崗岩は放射性物質を含んでいます。このようなタイプの放射線被ばくは外部被ばくと呼ばれるもので、レントゲン検査と同じ原理で起こります。また、食べ物にもカリウム40という放射性物質が含まれており、このような原理で起こる放射線被ばくは内部被ばくと呼ばれます。さらに、空気の中にはラドンといった放射性物質が存在していますが、その量に応じてヨーロッパと日本では被ばく量が異なることが知られています。ヨーロッパの線量は4mSv/年くらいと日本(2mSv/年くらい)より高いようです。ちなみに、震災後にみなさんが「シーベルト」「ベクレル」といった単語を、報道を通して頻繁に耳にされたかと思います。「シーベルト」は、どれだけ放射線を浴びたか(放射線による身体への影響はどの程度か)という量に用いられるのに対し、「ベクレル」は一般的には放射性物質の量を測る単位として用いられます。

このように、人は日頃から放射能の影響を受けています。しかし、福島第一原発事故によってどの程度追加の放射線被ばくが起こったかは、現地の住民にとって非常に重要な問題であるにも関わらず、正確な情報が存在していませんでした。そこで、南相馬市においては、内部被ばくに関しては複数の医療機関にWhole Body Counter(写真1)と呼ばれる検査器を設置し、また外部被ばくに関しては個人線量計(通称:ガラスバッチ)(写真2)を用いて、それぞれ検査を継続しています。そのような取り組みの結果として、住民の内部被ばく・外部被ばくいずれも健康に問題がないレベルであることが明らかになっています。素晴らしかったと個人的に感じているのは、ここまで継続してデータをとり続けたことです。放射能の話はイデオロギーに基づいた議論になりがちです。そのため、住民の方々が生活を続けていく上で、現地の安全性についてしっかりとデータが残っているのはとても価値があることだと思います。当然多くの方々の協力があって実現できたことではあるのですが、このような検査体制が確立した背景には、上医師や坪倉医師の貢献はとても大きかったと感じています。

▲写真1 : Whole Body Counter

 

▲写真2: 個人線量計(通称:ガラスバッチ)

前述のように、もともと被災地の仕事に関わりたいという気持ちを持って福島に移ったこともあり、会津若松市で仕事をしている間も、福島第一原発近くの状況を「自分の目で見てみたい」という気持ちはずっと持っていました。震災からずいぶん時間が経ってしまいましたが、2014年10月、私は竹田綜合病院を退職して南相馬市の南相馬市立総合病院に異動しました。

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