東京慈恵会医科大学外科学講座統括責任者 大木隆生先生インタビュー(前編)

2018/1/6

1995年、32歳の時にアメリカで当時最先端の人工血管「ステントグラフト」の開発に携わり、名門アルバートアインシュタイン医科大学の教授となった大木隆生先生。「Best Doctors in NY」に2003年から4回連続輝き、ニューズウィーク日本版では2000年に「米国で認められた日本人10人」に、2006年には「世界で尊敬される日本人100人」に選出されました。2006年に帰国後は、母校の慈恵会医科大学血管外科でステントグラフトの第一人者として日本の血管医療をリードして、いわゆるスーパードクターとしてメディアに数多く取り上げられました。その帰国後から現在までの、やや狂騒的とも言える様子を伺いました。

冷凍宅配食の「ナッシュ」
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枝付きステントグラフト術で、手術不能と言われた患者を救い続ける

―2006年に帰国されてからもしばらくはアメリカと行き来されていたそうですね。

月のうち、1週間はアメリカという生活を3年ほど続けました。やはり指名されての手術が多かったので、とにかく日本でもアメリカでも手術に次ぐ手術の日々でした。時間が惜しいので、成田空港を発つときに定刻発であることをアメリカのスタッフにメールしておくのです。そうするとニューヨークJFK空港に着く頃には麻酔をかけ始めていて、私が手術室に直行すると手術が少し始まっているので肝心な部分から引き継げるのです。日本に戻る時も同様の事をしていました。

毎週水曜には外来診療も行っていて、全国から手術不能と言われた患者さんが私のステントグラフト手術に最後の期待をかけて訪れるのです。それに応えるため、診療は夜中の2時3時、時には明け方までも続きました。その日だけは看護部、事務、薬剤部も3交代制をひいていたほどです。また、新橋辺りのタクシー運転手の方にも私が夜中まで診療していることは有名でした。夜中に外来診療を終えて、向かいの建物にある教授室に戻る私の姿がタクシー乗り場から見えると、「今日は大木先生の患者さんはもう終わりだ」とばかりに、並んでいたタクシーが散るという光景がみられました。

―日本のステントグラフト手術の黎明期ならではのエピソードですね。

12年間滞在したアメリカから帰国する絶好のタイミングで日本でステントグラフト手術が保険適用になりました。当時の血管外科のスタッフは、ステントグラフトに触ったこともない状況から始まったので、とにかくまずは私が頑張るより他ありませんでした。月火木金は2~3つの手術室を並列で使用し、それらを順番に回るような調子でした。今は日本でも年間1万例は行われているステントグラフト手術ですが、2006年当時は300件ほどで、その半分は慈恵医大でした。今は時効でしょうから明かせますがアメリカでの手術を少しずつ減らしていったものの、最初の4~5年は私の月のサービス残業時間が300時間ほどもあるような状況でした。
今は、ステントグラフトの経験を積んだ医師が医局に10人いて手分けして手術に当たっています。私自身は、慈恵医大のホームページにも書かせていただいているのですが、大木宛ての紹介状をお持ちいただいても基本的にはスタッフ医師が手術を担当し、スタッフでは安全に行えないと判断された難症例に限り私が外来診察し、執刀については、難易度の極めて高いケースのみに限っています。動脈瘤など、時限爆弾を抱えているような状態ですから、半年待って私が執刀するよりは、私がバックアップで控えているもと、優秀なスタッフがタイムリーに手術するほうが良いと思っています。

ベスト・ドクターよりベスト・ティーチャーに価値を感じて

―多忙という言葉では言い尽くせないような激務をこなされてきたのですね。

有事だと思っていましたから、疲れなど感じている場合ではありませんでした。そういう生活を、今もう一度やれと言われてもできるものではありません。とは言え、医師として当たり前のことだったと思っています。
それよりも、当時のことで誇りに思っているのは、私の外来診療を受けようとして、患者さんには長い人で15時間もお待ちいただくことを強いていたわけですが、待ち時間についてのクレームは一度もなかったことです。どれだけお待たせしてしまったとしても、診療はしっかりと行い、患者さんやご家族に納得いくようご説明ができていたからだと思っています。待った甲斐があったと、全員に思っていただける診療だったのだと自負しています。

もう一つ誇りに感じているのは、激務の中でも後進を育ててきたことです。基本的に教えることは好きですし、大事にしています。実はアルバートアインシュタイン大学時代に学生やレジデントが選ぶ「ティーチャー・オブ・ザ・イヤー」を2度受賞しています。指導する立場の医師は何百人といて、その中から一人選ばれるわけですからとても名誉なことです。慈恵医大でも、忙しい中、後進に真剣に向き合うのが信条なのです。

ベスト・ドクターの類にも選ばれていますが、そうしたタイトルよりも、ベスト・ティーチャーに選出された方が私はうれしいです。なぜなら生き様が認められた気がするからです。学生や研修医という、大学病院のピラミッドの中で立場の弱い人たちは、日常的なふるまいを間近で見ています。学会発表や論文などキャリアにプラスになる仕事に精を出して、患者をおざなりにするような様子が透けて見えれば、彼らから支持を得ることは無理でしょう。私自身が体育会気質なのもありますが、学生たちが医師としてより良い人生を送れるよう、少しでも役に立ちたいと思っていますから、その結果としての評価であればうれしい限りです。

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